「在宅に力を入れる」という方針は開業前から決めていたものの、スタート当初は経営基盤がほとんど固まっていない状態でしたから、創業前と同じく飛び込み営業の毎日です。最寄り地域の保育園や公民館の高齢者親睦会などに出かけ、「この近所に住んでおられるのなら、お薬はうちでもらえますよ」と面分業について説明するという、非常に効率の悪い営業でした。現在でこそ、各地の薬局がケアプランセンターを営業で回るようになりましたが、その当時はそれもほとんどなかったので、たまたま飛び込みで訪問したケアプランセンターでは「配置薬」の会社と勘違いされたりもしました。

 

真夏の日中、あまりの暑さで汗を垂らしながら福岡市内の高齢者施設を片っ端から回っている最中、たまたま目に入ったレストランの店内で、地場中堅薬局の方が昼間から女性同伴で食事しているのを見かけ、「なんでオレだけこんな目に…」と、どうしようもなく悔しい気分になったこともあります。それでも営業を続けなければ利益を出せないのですから、「新しい処方せんを!」と走り回る毎日でした。

 

そんなある日、長崎県大村市にある障害者施設から、薬の配送依頼が入ります。看護師1人だけで約60人分の薬を管理している状況なので、協力してもらえないか…という相談でした。太宰府から往復4時間以上かかる場所ですが、断る余裕があるはずもなく、同時に、何とかお手伝いしたいという想いも沸いてきたので、毎週火曜日に薬を届ける契約を結びました。当初、薬は昼間に配達していたのですが、そうするとそれ以外の営業ができなくなるので、夜8時以降に届けるようにしました。福岡に戻れるのは夜中になりますが、不満を口にできる状態ではありません。その状況がしばらく続いた後、突然、筑紫野市の施設からも、約150人分の処方せんが入るようになります。ほぼ同時期、今度は糟屋郡の施設などからも薬の依頼が入り、計300人分くらいの処方せんを、一気に取り扱わねばならなくなりました。

 

その当時の陣容は、私と肱岡エリア長(現在)と調剤事務の3人で、薬の在庫棚もなかったので、店内の至るところに積み上げた薬の箱の合間を縫って動き回る状態でした。仕事が終わった後にハンズマンに出かけ、資材を買ってきて棚を組み立てる毎日です。太宰府店は現在でも、店内一杯に棚が並んでいるのをご存知だと思いますが、それは創業当時の名残なのです。

 

何しろ、昼も夜も働きづめの毎日。あまりの激務とハードスケジュールのせいで、とうとう肱岡エリア長が入院してしまう事態に。通勤中、低血糖状態に陥って事故に遭ってしまったのです。肱岡エリア長のお母様とお姉さんが見舞いに来られた際、口には出さないまでも『あんたのせいで、うちの息子は死ぬところだった。もう辞めさせたい』と言いたそうにしているように見えて、私はどのツラ下げて謝罪すれば良いか判らない心情でした。しかしそれでも、いったん引き受けた処方せんを中断するわけにはいきません。

肱岡エリア長が退院し、体調が回復するまでの間、私の携帯電話に連絡先が入っていた薬剤師たちに連絡しまくり、スポット的に来てくれる人たちの力を借りて何とか調剤と配達を続けました。そんなギリギリのタイミングで、薬科大時代からの友人である現在の城尾取締役が当社に来てくれることになり、その当時に手伝ってくれた薬剤師の何人かも、その後、当社に来てくれています。

 

創業直後の金が無い時に続き、2度目の“もうダメかな?”でしたが、今になって振り返ると、そんな深い苦悩や絶望も、考え方ひとつで次へのエネルギーに変えられると思います。